《前編》ピープル・アナリティクス = 人材のための財務諸表【2】
ピープル・アナリティクス(以下PA)とは、従業員に関わるあらゆるデータを活用してより良い人事意思決定をおこなうことで従業員の幸福度を上げ、それにより経営効果の向上を促す様々な施策の総称です。2017年時点でのPwCによる調査結果では、人事担当者の79%がPAに関心があると答えている一方で、現在でも「重要度は高いが緊急度は高くない」、「何から始めれば良いか分からない」、「いろいろ試してはいるが悪戦苦闘している」という声がよく聞こえます。
そこで本稿では、PAを組織内で推進していく上で、以下の2点を前・後編に分けてお話しできればと思います。
前編:(これまでは)なぜ、うまくいかなかったのか?
後編:技術的・意識的な課題を乗り越えるポイント
なお、本稿を担当するトランは BCG(ボストン コンサルティング グループ)、リクルート、Googleといった企業において、事業開発・経営企画・マーケティングなどの領域で「アナリティクスやアナリストを、いかに経営や現場にとって役立つ武器にするか」に腐心していましたので、人事以外の領域でのアナリティクス活用に際する反省や学びも交えて考察していきます。
目次
PAは、なぜうまくいかなかったのか~問題意識が原因になるケース
得てしてアナリスト部隊や人事部門は「コストセンター」と捉えられがちで、システム投資や人員拡大に対して、経営側は消極的な姿勢を見せることが少なくないでしょう。また、PAに関しては「興味はあるけど、今はまだ取り組む必要は無い」、「(いざとなれば)既存の手法やツールで対応できる」という声もよく聞きます。しかし、以下の3つの点で問題意識を改めるべきだと考えます。
a. PAをリスク対処的なツールと捉えている
人事領域に限らずとも「問題が発生・顕在化してから対応方針を練り、改善策を実行する」ケースは枚挙にいとまがありません。しかし例えば離職率の上昇が顕在化し、原因究明と対処策実行のためにプロジェクトチームが組成されたとしても、事前に分析基盤を整備していないと上述の通り原因究明だけで6~9ヵ月かかり、その間にも離職の波は止まりません。組織の拡大・変容にともなって必然的に迫り来る波に備えて、事前に灯台や防波堤を築いておくべきではないでしょうか。
よく企業の経営資源は「ヒト・モノ・カネ(・データ)」に集約されるといいます。「カネ」の動きや健全性をリアルタイムで捉え、客観的な指標で評価し、将来の財務戦略を始めとした経営方針に示唆を与える『ツール』として「財務諸表」があげられます。「モノ」に関しても、顧客の動きや健全性(離反の兆候など)を捉える『ツール』として、CRM(顧客管理)やSFA(営業支援)が存在します。しかもこれらは財務部長や営業部長の専売特許ではなく、今や経営と現場が一枚岩となって、同じ目線・言語で意思決定できるよう促進する触媒としての役割を果たしています。同様にヒトに関しても、組織や従業員の動きや健全性を、人事・経営・現場が普遍的に捉える『ツール』が存在しても良いはずです(※1)。少々大げさかもしれませんが、PAは本来「人材のための財務諸表」と位置付けられるべきでしょう。
赤字が疑われてから初めてPL(損益計算書)を正しくつけるような企業は、今やほとんど存在しないでしょう。同様に、ことさら人材活用を標榜している企業においては、離職などの組織課題が顕在化してようやくPAを始めることがないよう、決して埋没費用ではなく「保険」として先行投資する価値は充分にあると考えます。
※1 余談ながら、経営会議や投資家説明会などでも、モノ(プロダクト)のチャーン(=解約率)は頻繁に議題にあがりますが、ヒトのチャーン(=離職率)があがることはそう多くないかもしれません。ヒトの動きや状態を客観的・普遍的に評価する指標が、より取得・可視化しやすくなれば、状況は変わっていくでしょう。
b. 既存のHRツールでしのいでいる
「HRテック」と呼ばれるツールやサービスの提供価値は、業務効率化(プロセスマネジメント)と意思決定の効率化・適正化(データマネジメント)に大別されます。また対象とする範囲は、採用や人材評価(タレントアセスメント)など従業員ライフサイクルのうちの一部、もしくは全部を含むものもあります。その中でPAは「従業員ライフサイクルの全部について、意思決定の効率化を支援する」ものと位置づけられます。
現在HRテック市場を席捲しているのは、従業員ライフサイクルの一部の業務をデジタルで効率化するような「部分最適化ツール」でしょう。無駄な工数の削減や生産性向上の成果が、比較的早く、可視化される、という理由に起因していると考えられます。そうした取り組みの延長線上に「とりあえずは既存のツールの分析機能でPAにチャレンジしてみる」という声もよく聞きますが、本当にそれらのツール単体で組織が把握すべき指標を、全体観をもって可視化できるのか、再現性が高く意思決定の質向上に寄与するのかどうかは、慎重に評価すべきです。
c. アナリストに孤軍奮闘を強いている
最近では、「とりあえず数名のPAアナリストをアサイン(任命)した」という企業も散見されます。組織の中にPA専任の役割・役職を設けたことは、非常に意義のある第一歩だと思います。しかし、PAを本当の意味で推進するには、そのスコープ(業容)を単なる分析・解析のみと過少に捉えるべきではありません。
PAに限らず、データ分析の価値は (1)Description(現状把握・可視化)、(2)Prediction(把握データを基にした将来への示唆・予測)、(3)Prescription(具体的なアクションの提言・実行支援)の3つに分かれます。特に(3)では最終受益者、つまり企業においては経営や現場にとって役に立ったかどうか、意思決定の質が向上したか(=既存の非効率な業務や不合理な慣行が、より価値のあるものに是正されたか)が、データ分析の成否の分水嶺となります。そのためには、経営層に対する働きかけや、現場のニーズ・インサイトの発掘など、机上の分析作業だけでは到底網羅できないような業務にまで対処する必要があります。数名のアナリストが(1)~(3)すべての責務を負うのは、非常に大変なことです。
PAは、なぜうまくいかなかったのか~技術的な課題が原因となるケース
POS(店頭販売)、CRM(顧客管理)、SFA(営業活動)、財務など、企業が有する他のデータ群と比較して、従業員データを分析し活用する上では固有の難しさが複数存在します。
a 入力データが特に汚い
従業員データは他の領域に比べて、「後で分析して意思決定に活かしていく」という目的意識が希薄な理由もあってか、データの入力規則がバラバラであったり、欠損値が多数見られたりします。中でも採用に関わるデータは、採用ソースが多様であったり、入力タイミングが不規則になりがちだったり(発令日と発効日がシステム入力日と一致しないなど)するため、データのクレンジング(重複、誤記、表記揺れなどの是正)が特に難航します。例えば「リンクトイン」を表すデータとして、「リンクトイン」、「リンクドイン」、「LinkedIn」、「Linked in」、「LI」といったさまざまな表記が同時に存在します。ただし、これはかなりマシな例です。
b 一元化されていない
従業員データは、採用・研修・社内異動・勤怠・営業成績・評価・コミュニケーション・エンゲージメント・昇給・離職など多岐にわたりますが、多くの場合、異なる部署が別々に管理するケースが多いのが実情です。これらを1本に繋げると従業員の会社生命(ライフサイクル)を形作ります。各々のデータは相互に連続性や因果関係を内在しているため、繋ぎあわせることで浮き彫りになる示唆や気づきは数多くあります(※2)。例えば、採用時点での候補者による体験や評価は内定受諾率だけでなく、入社後のパフォーマンスや定着率にも一定の相関関係を持つことが、いくつかの事例で確認されています。一貫した分析を実現するには、採用時点での候補者と入社後の社員を「同一化」する必要があります。そのためには、業務フローの中で採用データの「候補者ID」と社員データの「従業員ID」の紐づけなければなりません。しかしながら、データ管理や活用状況がサイロ化されている状況では、このような一見単純な業務設計・運用ですらも困難を極めてしまいます。
※2: デジタルマーケティングの世界では、データの取得・解析技術の進化にともなって顧客接点の一元管理がより容易になり、5、6年ほど前から、生涯価値(LTV)や施策別の貢献度を算出することで、全体の予算や活動を最適化する動きが活発になっています。PAもデジタルマーケティングから応用できるフレームワークや手法は多いでしょう(詳細は本連載第4回で紹介する予定です)。
c プライバシー設計が複雑
従業員データは、通常は雇用契約を締結した時点で会社に帰属するケースが多いものの、その取り扱いには非常に慎重にならなければなりません。例えば人事部の中でも、部署や役職に応じて給与や評価データにアクセスできるメンバーを制限している企業がほとんどです。また、「給与の平均値」を部署ごとに比較分析する場合に、さまざまなフィルタリングを行った結果、逆算すれば個人の給与の実数値がほぼ特定できてしまうようなリスクも考慮しなければなりません。母集団が一定数以下になった場合に、算出された数値を表示させない手法をマスキングといいますが、そうした手段によりリスクを回避していく設計が求められます。
そして、プライバシー設計と類して「ヒエラルキー設計」も一般的なBIツール(ビジネス・インテリジェンス(Business Intelligence)の意、企業に蓄積された大量のデータを集めて分析し、迅速な意思決定を助けるためのツール)では困難を極めます。例えば、 A事業部長にとって意味のあるデータの母集団は、A事業部長の配下に紐づくメンバーのデータだけなので、B事業部長のメンバーのデータが混じっていると有用性は低下します。ところが、配置転換・兼務発令・部門の統廃合などといった組織変更イベントが四半期〜半期おきに頻発するため、組織の階層構造をリアルタイムで正確に把握し、分析を行うことは、多大な労力を要します。実際に、数百人規模の組織変更が半期に一度行われると、新たな組織図をエクセルに落としこむ作業だけで数週間以上かかっているケースも散見されます。
これらのリスクに対処せず、単に全部削ぎ落としてしまうと、分析対象として安心して使えるデータセットが少なくなり、「点を線で繋いで、俯瞰的な示唆を得る」というPAの真価が発揮されません。
a~c のような技術的課題を解消するテクノロジーやツールは徐々に芽生えていますし、PAを専門とするデータサイエンティストやアナリストも少しずつに増えています(※3)。なお、 PA の分析基盤・体制を数名のPAアナリストが整備するために、現状では6~9ヵ月を要すると聞きますが、今後は技術的なハードルが下がり、より少ない時間とリソースで実現可能となることが期待されます。
※3:ハーバード・ビジネス・レビューが「データサイエンティストは21世紀で最もセクシーな職業になる」と評したのは2012年10月ですが、労働市場におけるデータサイエンティストの需要はマーケティング領域が圧倒的優勢で、HR領域ではまだ十分に浸透していない印象です。そのため従業員データ独自の魅力をより訴求していく必要がありそうです。CX(顧客体験:マーケティング領域)には無いEX(従業員体験:HR領域)の魅力については、本連載第4回で改めて紹介する予定です。