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ナッジの極意:アメとムチに頼らず行動変容を促す【7】

ナッジの極意:アメとムチに頼らず行動変容を促す【7】

人々の意識改革や行動変容を短期間で促すことは、一筋縄ではいきません。アメ(金銭的報酬)やムチ(罰則)に頼ったインセンティブ設計には即効性がありますが、アメを得ることやムチから逃れること自体が目的化してしまい、本来目指していたゴールを自発的・持続的に達成することを妨げるリスクもあります。そのようなトレードオフを解消するアプローチとして、近年「ナッジ」が注目されています。

目次

ナッジの理論的な裏付け

ナッジ(Nudge)とは「ヒジでちょっと突く」と一般には訳される動詞です。ビジネスの文脈では、施策の実行者が対象者に対して「選択の自由を奪ったり歪めたりすることなく、ささやかなキッカケによって自発的な行動変容を促すこと」と定義できます。直近では、レジの前から1mおきに線を引くことで並ぶべき位置を示唆するコンビニやスーパーマーケットを目にしますが、これは密集状態を極力作り出さないことで新型コロナウイルス感染症の拡散を抑止しようというナッジの一例です。では、人事施策においては、どのようなナッジが有効でしょうか?

事例(1):面接官のフィードバック記入率を高める
採用候補者のフィードバックをタイムリーに記録・共有することは、採用の歩留まり改善、候補者にとっての体験向上、公平性の担保など、採用業務における様々なメリットに繋がります。一方で面接官にとっては、日常業務に忙殺される傍らでタイムリーかつ正確にフィードバックを記入するのは簡単なことではありません。「あなたのタイムリーなフィードバックが、候補者の体験を高め、採用競争力の強化に繋がります」と協力を呼びかけても、面接官自身のメリットが明確でないと、簡単に自分の問題としては捉えられないものです。

日常業務の傍らでフィードバックを記入することが困難であるため、多くの面接官は面接時間中に大部分を書き上げてしまいたいと思っています(外資系企業の面接では、面接官は候補者の表情よりもパソコンの画面を見ている時間の方が長いこともあります)。また面接官は事前準備として、候補者のレジュメに目を通してから臨みたいと考えるものですが、事前に紙でプリントアウトした履歴書とパソコンの入力画面を見比べながらフィードバックを記入するのは、かえって入力の効率を損ねてしまいます。

そこでUberでは、あえて履歴書を紙でダウンロードできないようにし、その代わりに候補者の履歴書とフィードバック記入画面をデジタル上で横並びにする UI をデフォルト(基本仕様)としました。これにより、面接官のフィードバック入力時におけるストレスが軽減され、記入率は改善されました。「履歴書を見る」という選択の自由を奪うことなく、フィードバック記入率を高めるという目的を自発的に達成できたという点で、ナッジの好例と言えるでしょう。

事例(2):研修の無断キャンセル率を下げる
予約をしたにも関わらず、キャンセル連絡もなく参加しないことを「No Show(ノーショウ)」と言います。当人の悪気の有無に関わらず、任意参加の研修などで散見される問題です。特に定員が決まっている場合では、研修講師の士気を下げたり、定員漏れした参加希望者の便益を損ねたりするため、継続開催が危ぶまれる要因にもなります。参加者にノベルティを配布する、キャンセルによる罰則を強化する、といった「アメとムチ」で参加率を高められることもありますが、ノベルティ目当ての低質な参加者を増やしたり、登録率を下げたりするリスクもあります。では、どのようなナッジが有効でしょうか?

これまで効果が確認されているアプローチの1つは、「研修まであと1日になりました。この研修の過去の満足度は98%でした(全研修の平均は85%)。また、この研修には50人の順番待ちがいます。もしどうしても参加できなくなった場合は、キャンセル登録を行い、順番待ちをしている人に譲ってあげてください」という趣旨のリマインドを、ベンチマーク(参照点)に対する優位点を引き合いに出しつつ、良心に訴えかけて送信することです。Googleでは、現在の登録者や順番待ちの参加希望者の顔と名前をリマインドメールに載せることで、No Show率を更に下げることができました。

事例(3):低糖・低カロリーの食品や飲料へ誘導する
従業員への福利厚生の一環で、オフィス内に無料(ないし低価格)の食事・お菓子・飲料を提供する企業が増え、より多くの従業員がその恩恵にあやかっています。Googleでもかつて「The Google 15」と言って、飲食の選択肢が豊富にある弊害として、入社 1年以内に平均で 15ポンド(≒ 7kg)の「幸せ太り」をするという逸話がありました。その真偽は不明ですが、従業員の健康増進のために糖分やカロリーの摂取量をもう少し抑制できないかと、人事側が頭を悩ませていたことは確かなようです。

ではチョコレートやコカ・コーラの提供を直ちに止めればよい、と言うのは易しですが、選択の自由を奪われた従業員からのクレームは必至です。そこで実行されたナッジ施策では、従来は透明な瓶に入っていたチョコレートを透明でない容器に移し替え、コカ・コーラを比較的取り出しにくい冷蔵庫の下段に再配置した上に、ガラス扉の冷蔵庫の場合は下段にモザイクのシールを貼ることにしました。どちらも従業員の選択肢を完全に奪うことなく、全体の糖分やカロリー摂取量を抑制することに成功しています。

以上のような事例は一見有効なテクニックのようで、再現可能性に乏しいと思われるかもしれません。実際にナッジ自体は歴史がまだ浅く、確立された理論やフレームワークは多くないですが(※1)、実践面では「問題となる事象や望ましい状態を定義し、ボトルネック(阻害要因)を排除しながら施策を実行する」点で、通常の問題解決アプローチとほぼ同等に捉えて差し支えないでしょう。一方でナッジ施策のユニークな点は、(1)簡単で即効性があること、(2)人間の無意識のバイアスや性質を利用していること、(3)アメやムチに過度に依存しないこと等が挙げられます。下記は「簡単で即効性が認められているアプローチ」の代表例です。

ナッジの極意:アメとムチに頼らず行動変容を促す【7】

続いて、「人事領域で起こりやすい、無意識のバイアスや性質」の例です。

ナッジの極意:アメとムチに頼らず行動変容を促す【7】

例えば、研修の無断キャンセル率を下げた事例(2)の場合だと、図1の(2)リマインド、(3)ベンチマーク、(5)良心に訴えるコミュニケーションを組み合わせ、なおかつ事後に出欠状況が可視化されるようにすることで、図2の(C)社会的な手抜きを抑制することに成功しました。各々の要素は行動経済学や認知心理学において実証されている理論やアプローチですが、その組み合わせの妙に「ナッジ施策」の面白さがあるとも言えるでしょう。

※1:OECD(経済開発協力機構)はBASIC、イギリスの内閣府の下部機構であるBIT(通称ナッジ・ユニット)はEASTというフレームワークを提唱しています(下記英文、ともにPDF)。
https://www.oecd.org/gov/regulatory-policy/BASIC-Toolkit-web.pdf
https://www.behaviouralinsights.co.uk/wp-content/uploads/2015/07/BIT-Publication-EAST_FA_WEB.pdf

さいごに

人事領域に限らない例ですが、ナッジは確立された理論が多くないが故に、使用法を誤った失敗も散見されます。

(1)ブーメラン効果
「社会規範や良心に訴える」アプローチは、規範自体が曖昧である場合、本来の意図と反対の結果を招くリスクもあります。ある保育園では保育士の残業増加が問題となり、その原因であった無断延長保育を撲滅するために「延長料」を新たに徴収することを決めました。ところが「延長料を払いさえすれば、気兼ねなく無断延長しても良い」という意図しない規範が親の間で形成され、延長料を徴収する前よりも無断延長率が増加してしまいました。

また、ある自治体では省エネを推進するために、各世帯に対して「あなたの電力消費量は、近隣の平均よりも10%多い/少ないです」というようにベンチマーク情報を提供する施策を実行しました。平均よりも過剰消費していた世帯は消費量を減らす傾向が見られましたが、そうでない世帯では「もう少し消費しても大丈夫」と社会的な手抜きが新たに発生したためか、むしろ消費量を増やす傾向が見られ、全体での電力消費は施策の実行前後でほとんど変わらない結果に終わりました。

(2)悪いナッジ=スラッジ
ナッジに関しては人事領域に先行してマーケティング領域でも様々な活用事例がありますが、過度な獲得競争が禍いしたためか、消費者の便益を損ねてしまう事例も散見されます。例えばアカウント情報を変更するたびにメールマガジンの受信設定を無断でオンに切り替えられたり、退会画面において退会すべきでない理由を延々と「逆論破」し続けられたりなどの施策は、供給側によって消費者の選択の自由が歪められており、ナッジの韻を踏んでスラッジ(sludge:直訳ではヘドロ)と呼ばれます。

どちらの場合においても、施策の実行によって対象者の選択の自由が歪められていないか(少なくとも、従業員側がそのように感じてはいないか)、望ましい行動変容を起こせているかは、実行対象を絞ったり比較対象群を設けたりしてABテストを繰り返しつつ、問題があれば軌道修正するか中止する必要があります。しかし上手にナッジを活用できれば、人事関連業務の効率化・ボトルネック解消や、従業員のWell being向上を促し、アメやムチだけに依存しない即効性かつ持続性のあるチェンジ・マネジメントを実現することも夢物語ではないでしょう。